松岡正剛氏 講演会@変は、快哉

 16日、新宿 紀伊國屋ホールで開かれた松岡正剛氏の講演会へ。
 今回の講演会は、求龍堂から出版された『危ない言葉』『切ない言葉』の出版を記念して開催されたものである。

『危ない言葉』『切ない言葉』


 『危ない言葉』『切ない言葉』では、松岡氏の著書やWebで語られた内容から重要な言葉を抜き出して、それぞれ1冊の書籍としてまとめている。
 今回の講演会では、さらにその中から選りすぐってエディットされ、正剛さんの人物像が浮かび上がるように並べ替えて紹介された。
 その中で印象的だった言葉をいくつかご紹介する。


隠された目盛を探したい。
(種の郷愁 『二十世紀の忘れもの』)- 『危ない言葉:12p』

 講演会はまず、正剛さんの核となる思想に関わる言葉がいくつか続けて紹介された。真っ先に紹介されたこともあって、この言葉はなおさら印象に残った。
 「今の日本社会は隠れた目盛が許されない状態になっている」と正剛さん。「隠された目盛こそ重要なのだ」とも。


いろいろ欲しいと思うものも、
さまざま望みたい出来事も、
あれこれ交わしたい人物もいるだろう。
しかし、たった今のこの時には、
手元に残ったもので工夫をするべきだ。
(堀田善衛 定家明月記私抄 千夜千冊第17夜)- 『危ない言葉:92p』

 「かつては、欲しいものがいっぱいあっても買えなかった」わけで、そういう時代を生きてこられた正剛さんだからこその一言。そして、裕福な日本しか知らない我々が忘れてはならないことだとも思う。
 ここを押さえておかないと、「最初から残すことも想定したうえでたくさん食べ物を頼み、自分のダイエットのために途中で粗末に食べ残す」な~んて行為を、にこにこと笑いながら平気でやらかす人になっちゃうわけで。・・・っと、閑話休題。

 欲しくても手に入らない......。だったらどうするか。
 手元にあるもので工夫をする。手元にあるものを見立てる。

 例として、藤原定家の話をご紹介くださった。
 藤原定家は「無心」を読み替えて「有心:うしん」を詠んだ。代表的な歌が、例の「見渡せば 花ももみぢもなかりけり 浦のとまやの秋のゆふぐれ」である。「ない」状態を詠んでいるのに、人々の脳内には、紅に色づいたもみぢの様が鮮やかに蘇ってくる。結果、浦の苫屋のたたずまいとの対比がより一層際立ってくる......。

 手元に残ったものでどうやって工夫をするか。そこに「知」が生まれる。「知」が育っていく。


いちばん心がけたことは、
寝ないようにするということでしたね。(笑)。
(多様性を育てていく 「多読術」)- 『切ない言葉:126p』

 正剛さんの睡眠時間が短いことは他の著書で存じ上げていたが、今回、その理由をはじめて伺うことができた。腑に落ちた。なるほど。

 「寝ないようにすることで、セレンディップな邂逅(かいこう)に出会う」のだと、正剛さんはご説明くださった。「疲れるまでやる。たとえば、アインシュタインを読みつつ、禅語録を読む。すると、交わらないはずのものに橋がかかる瞬間がある」と......。

 この状況は、斎藤孝氏の「とにかく量が重要。量をこなしていくと、そのうち必ず新しい道が開けてくる」にもつながる。正剛さんも斎藤さんも、それぞれマーキングで本を読む達人であることも共通項である。互いに「速読に否定的である」ことも共通で、ここもまた妙に腑に落ちる。


体の酷使こそ発想の源泉である。
(川崎和男 「千夜千冊 第924夜」)- 『危ない言葉:74p』

われわれはつねに
「ある中止しがたき事情」を
もたなければならない
(トーマスエジソン・「遊」)- 『切ない言葉:124p』

 「宇宙には日曜日はない。休みたくなるときは、宇宙と関わっていない証拠」とも正剛さんは仰る。

 この言葉は、とても深い。
 単に、お金をいただくために仕事をしているのか。その仕事自体が好きで仕事をしているのか。そのあたりの差が、日曜日の様子に現れる。

 その仕事自体が大好きで仕事をしているのだったら、日曜日に仕事していても文句は出ない。
 「日曜日なのにぃ、仕事なんですぅ」などと、いつまでもダラダラと文句が出てくるということは、宇宙と関わっていない証拠。
 ホントに好きな仕事だったら、日曜日に仕事をしていても楽しい。日曜日=休みの考え方がそもそもない。時間があったら、新しい変なことをいろいろ試してみたいし、ね。

 「日曜日なのにぃ、仕事なんですぅ」と文句が出る方々は一考されたし。


自分に自信がないときは、歴史にも世の中にもまだまだ「欠けたモデル」があるのだと思えばいい。
(澤泉重一 セレンディピティの探究「千夜千冊 第1304夜)- 『危ない言葉:105p』

なぜ「弱さ」のほうが「強さ」より深いのか。
なぜ「欠如」のほうが「充足」よりラディカルなのかということである。
いいかえると、「弱さ」はなぜわれわれに近いのか、ということだ。
(フラジャイル あとがき)- 『切ない言葉:175p』)

 この2つの言葉には、パワフルな勇気をいただいた。

 たとえば、「足が遅くて、数字に弱くて、絵が下手」というモデルがあったとする。
 「あぁ、オレは足が弱くて、数字も弱くて、絵も下手でダメだなあ・・・」と落ち込むのではなく、その欠けているモデルを、どのようにプラスに転じていくか? 「足が弱くて、数字も弱くて、絵が下手」というモデルを、どのように「へたうまエンジン」に変えていくか? それが重要と、正剛さんは仰った。
 「へたうまエンジン」、これを究めていけばいいのである。上等上等。

 強いものが強い状態であり続けることは難しい。その状態をキープするためには、とてつもなく消耗することになる。その状態をキープするために、不正行為もしたくなるかもしれない。じつにもろくて壊れやすい。
 だったら逆に、弱さを大切にする。弱さのほうが近くにあるのだから、そのほうがずっと簡単に到達もできる。欠けたモデルは「変」である。しかし、変であることを知って大切にすることでラディカルに近づく。


意識がそもそも両性具有的なのだろうとおもう。
(リーアンアイスラー 聖杯と剣 「千夜千冊 第905」)- 『切ない言葉:168p』

 「少年少女が男と女に分かれていく過程で、一番大切なものをなくした。それが両性具有」と正剛さんは仰る。
 今度は、神田昌典氏の話ともシンクロする。神田さんも「自分の中の男性性と女性性のバランスが大切」という話を何度もなさっていらっしゃる。

 「男は強くあらねばならない」、「女は優しくあらねばならない」などと強要する親は今でも猛烈に多い。そして、その結果、子供は、自分の中の両性具有を否定し始める。男らしくありたいと自分の中の女性的な部分を封印したり、女らしくならねばと自分の中の男性的な部分をひた隠しにしたり......。そうやって逆に、ますます偏っていくのだと思う。もともと意識が両性具有的なのであれば、それを思いっきり羽ばたかせてあげたほうがいい。


そろそろ「変な人々」が出現してもいいのに、まだ機が熟さないのでしょうか。
「普通の人々」がはびこりすぎました。
(埒外案内 『一到半巡通信』 第29号)- 『危ない言葉:35p』

 正剛さんは、講演中に「僕は変、僕はおかしい」という言葉を何度も繰り返し仰っていらした。変であることを認め、変であることを受け入れ、変であることを大切にすることで、「変」が深化していく。
 くしくもこの講演会が始まる前、行きの電車で読んでいた本は、アスペルガー症候群に関する本だった。変であることを変であると認めて受け入れて、かつ、変である部分を活かしていくという内容だったのだが、あまりのシンクロにしばし苦笑い。^^; 


 最後に、正剛さんが締めくくられたキーワードは......。

「おもいきって、おかしなことをしてみる」

 ますます勇気をいただいたところで、講演会は終了した。


 正剛さん、元気になる講演会をありがとうございました。
 セイゴウ語録第二弾が出版されたら、また再び講演会をなさってくださいね。

ありがとうございました(^^)